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日本画 小川芋銭

小川芋銭

日本画家・小川 芋銭(おがわ うせん)は1868年(慶応4年=明治元年)に江戸赤坂溜池の牛久藩邸内に生まれた日本画家である。明治維新の廃藩置県に際し父親が農業にて生計を立てるべく城中村(現・茨城県牛久市城中町)に移住し、以後牛久沼の畔が芋銭のホームタウンとなった。若くして洋画や南画を学び、当初は新聞社で挿絵や漫画を描いていたが、俳句雑誌「ホトトギス」に挿絵や表紙絵を描いたのがきっかけで横山大観に認められ日本画壇に入る。本格的に日本画家としての活動を始めたのは芋銭45歳の頃で、その頃の作品に「老楊と荒村」がある。これは福島県喜多方市の風景と人々の行き交う姿を描いたもので、題名の寒々とした印象とは違って温かな彩色をほどこしていて、芋銭の穏やかな人柄が滲み出ている作品である。

山水や農村の風景を描いたことから「俗中の仙人」と言わた小川芋銭

芋銭自身が「俳画は我が本領中の本領なり」と語るように俳画には絶大な自身を持っていたようであるが、事実後世の人々は「与謝野蕪村のあとには芋銭しかおらず」と評した。最晩年の作に「一茶句意 露の世は」があるが、牛久沼で育てたのであろう里芋の葉2枚を墨一色で描いたもので、円熟した筆遣いはみごとというほかない。画中左に書かれた「露の世は 露の世ながら さりながら」の書もまた実に見事で、作品をいっそう情緒豊かなものにしている。 芋銭と言えば「河童の芋銭か芋銭の河童か」と言われるほどで「小川芋銭研究センター」の入り口には「かっぱの里 生涯学習センター」と表示されていて、思わず訪れる人たちを笑顔にさせる。数多くの河童の画のなかでも明治末の頃に描かれたという「カッパの戯れ」は挿絵画家として活躍していたころの作風を偲ばせている。晩年の河童のような、ある種哲学的な何者かを匂わせるような筆遣いとはかけ離れていて、芋銭の河童画の変遷を辿る上で参考になる一作である。芋銭は松尾芭蕉の影響を受けて生涯に渡って旅を愛し、各地の山水や農村の風景を描いたことから「俗中の仙人」と言われ、人々に愛されながら昭和13年に七十歳で永眠した。

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